History

フリースタイルフットボールの歴史

自分がフリースタイルフットボールを始めたのは2010年4月からですが、

始めたての頃はそれまでの歴史やバックボーン等わからず、どういった経緯でその技が開発されたのか、大会が開催されているのか、チームが結成されたのか、、

昔からやっている人にお話を聞いたり、過去のブログを読み直したりして勉強したものです。

自分の知っている知識は一部に過ぎず恐縮ですが、

フリースタイルフットボールの簡単な歴史を知ってもらいたいと思いこのページを作成致しました。

大まかな概要はこちらを参照→
リフティングを極めた先へ!フリースタイルフットボールとは

ナイキ本〜Windows Media Player時代(2004~06年頃)

古くからリフティングの技や、パフォーマンスは存在していたようですが、

「フリースタイルフットボール」と名前がついて始まるようになったのはNIKEの雑誌が出てからとなります。

(2004年6月)

この通称「ナイキ本」シリーズに登場されたのが、球舞のMacroさんやStylersのNissiさんでした。

その後、この本で登場した技を中心に広がっていきますが、Windowsのメディアプレーヤーでの動画投稿などが主流となります。

携帯サイト〜Youtube時代〜レッドブルストリートスタイル(2007~12年頃)

07年頃から、YouTubeでの動画投稿が普及していきます。

08年には世界大会に繋がる大会としては最大級規模の「レッドブルストリートスタイル」が開催され、

Yo-sukeさん(横田陽介)が第一回大会を見事優勝。日本代表として出場したワールドファイナルでは、

オリジナルトリックのプラティニ(プラティニのトヨタカップでの寝そべった格好から連想したフォームで足裏にのせるトリック)や、バックフリップ、ノリクラッチ(逆立ちクラッチ)で決勝まで勝ち上がりますが、フランスのSean(アーノルド・セアン・ガルニエー)に惜しくも敗れ準優勝となります。

翌年も第二回大会となるレッドブルストリートスタイルが開催。

3会場での地域予選の後、横浜赤レンガ倉庫前で行われた大会で優勝を果たしたのはtokura(徳田耕太郎)。

当時17歳での優勝は未だに最年少記録となっています。

日本代表として出場した世界大会では、まさかの予選敗退と悔しい結果となってしまいますが、

第三回大会となる2012年のレッドブルストリートスタイルで再び日本大会を優勝。

イタリアで開催された世界大会では、アジア人初&史上最年少となる優勝を達成し、メディアでも大きく取り上げられた。

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2012年イタリア大会での現地観戦にて

レッドブルストリートスタイルの苦戦、競技人口の増加と多様性が増す(2013〜14年)

2013年は第四回となるレッドブルストリートスタイルが開催。

日本大会はNaoさんが優勝し、スーパーシードとなるtokuraとともに日本代表として出場。

かつ、この年の世界大会は日本での開催となり、増上寺で開催されました。

連覇に挑んだtokuraは準決勝で敗退。Naoさんはグループ予選を突破したものの決勝トーナメントではベルギーのSofian(ソフィアン・ベンコック)に惜しくも敗れBest 16となりました。

翌年2014年も第五回となるレッドブルストリートスタイルが開催。

優勝はtokuraと同郷&元チームメイトのHiro-k。ブラジルで開催される世界大会への出場を決めましたが、

世界大会では希しくも昨年Naoさんが敗れたSofianにBest 16で敗れ、

結果的に振り返ると、日本人の世界大会での結果がtokura優勝後厳しいものと変わっている状況になりました。

JFFC開始・Instagramやtiktokの普及(2015年〜2019年)

RBSS時代が終わり、JFFCが開始された新しい時代へと変わっていきます。競技者の世代もまた入れ替わりがはじまってきており、SNSでのバズによりフォロワーを多く獲得する人も増えてきました。

Instagramやtiktokではリュートリックス、YouTubeではジェームズが流行るなど、競技実績はなくともフリースタイルフットボールをやっている人がインフルエンサーとして影響力を持ち始めるようにもなりました。

2015年

2015年には、横田陽介さんが中心となり、再び日本が一番を取れるようにする「世界で一番戦える日本人を選ぶ」大会をコンセプトに掲げ、JFFCの開催がスタートすることとなりました。

JFFCは、イギリスに本部を置く、F3という世界のフリースタイルフットボール連盟に紐付いている大会となり、2013年に先立って開催されていたAFFCにも繋がる大会となりました。

(第一回JFFCはku-taが優勝。第三回大会となるAFFCにはku-taを含め日本人5名がオープンエントリーをし、Ko-sukeが日本人として初めてアジアチャンピオンの称号を獲得。sitzも3位入賞、Fujiさんはイランのアクバリを撃破しBest 8に入賞するなど日本のレベルの高さを示すことができた大会でした。私BrianはBest32で敗退。。)

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Ko-sukeが優勝。

また、同年に開催されたプラハでのオープン世界大会「Super ball」では、ダブルルーティンと呼ばれる二人一組のチームコンテストにALEG-ReのYOSSHI、Yu-jが出場し、見事優勝を果たしました。

上記のように、レッドブルストリートスタイルだけでなく、他の世界大会でも日本人が活躍し、日本国内の大会も、JFFCだけでなく、NPOカンテラが中心となり「F4」という全国大会を通期で開催が14年に引き続き、15年も実施されました。

tokura主催のClash of FreestyleやFreestyle Fesも開催されており、大会の多様性や普及が進んできていると言えます。また、この頃から動画のシェアが行われる媒体が、YouTubeからInstagramへ主軸が移っていきます。

2016年

第2回JFFCはKo-sukeが優勝。その年に出場したRBSSでは日本人選手としては2012年でtokuraが優勝した以来の決勝まで駒を進めるが惜しくもアルゼンチンのCharlyに敗れ準優勝。(Charlyは2013、2014年のRBSSで2回連続で準優勝していた実力者)

2017年

第3回JFFCは前年覇者のKo-sukeをエアーテクニシャン所属のYoが競り勝ち初の日本王者に。この年はRBSSは開催されなかったが代わりに2018年年明け後にDAZN主催の世界大会が日本で開催された。Yoも招待されたがBest16でカルドフに敗退。優勝はポーランドのミクリッツだった。

2018年-19年

JFFCは18-19年とKo-sukeが連覇を飾る。(日本大会の連覇はRBSS時代から遡るとtokura以来2人目、JFFCでは初)。一方でオープンの世界大会であるSuper Ballでは2018年にYo、Kazaneのエアーテクニシャン2大エースがBest4まで駒を進めハードコア領域では苦戦がちな日本人のイメージを覆す実績を残した。(Super BallでBest4に残るのはtokuraが2013年にBest4に残った以来の功績)

さらに2019年にはYoがSuper Ballで決勝まで残り惜しくもErlendには敗れたがSuper Ballでの日本人成績としては最高位となる準優勝の記録を残す。

2019年はアジアチャンピオンシップでIbukiが見事優勝したことにより、その年のRBSSはKo-suke、Yo、Ibukiの3名が参加という過去最多の日本人枠出場となった。(結果はBest4 Ko-suke、Best8にIbukiとYo)

前述の通り18-19年はKo-sukeとエアーテクニシャンが国内外の大会でも上位を占めるような格好となった。

コロナによりオンライン化が加速(2020年~

新型コロナウイルスの拡大にともない、自粛を余儀なくされたため多くのイベントや大会が中止に。一方でオンラインでの大会も実施された。RBSSは初となる動画予選〜動画での本戦を実施し、今まで日本人枠が限られていたがこの年に関しては各国の予選を解さず初めからオープンでの予選となったため、日本人も多くエントリー。

結果として、1st~4thステージまでの予選で日本人は最も多い占有率を保ったまま予選を通過しBest16には最終的に7名が残るという功績を果たした。(Naoさん、Ko-suke、Kazane、Yu-ri、Leon、Hiro-k、syo-ta)ただ最後の決勝トーナメントではKo-sukeしか勝ち上がれず。Ko-sukeもBest8で敗退となり3年連続のBest4は果たせなかった。(優勝はまたしてもノルウェーのErlend)

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